5・18民主化運動(光州事件)

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5・18 民主化運動(光州事件)の歴史的な意義

5・18 民主化運動(光州事件)は民主主義のたいまつ

5・18民主化運動(光州事件)は、法に反して政権を握ろうとする新軍部勢力を拒否し、民主化を求めた市民の蜂起です。抗争期間中は公的に治安を守る機関が不在だったかかわらず、金融機関や貴金属店などで窃盗が一件も発生しないなど、市民たちの高い精神性が発揮されました。また、負傷者の治療に必要な献血のための行列は最後尾が見えないほどで、難しい局面にあっても助け合い、支え合う美しい共同体を作り上げました。このようなことは5・18民主化運動が世界の歴史上、類を見ない非常に理性的で道徳的な闘争であったことを裏付けるものです。
そして、国民が継続的に5・18の真相究明を要求したことにより、1980年当時の新軍部勢力が法によって裁かれた一方で、国家記念日の制定、墓地の聖域化事業、民主有功者としての礼遇など名誉回復の措置が取られました。
5・18民主化運動は、維新体制を受け継いだ「第5共和国」政権の不道徳性を浮き彫りにするきっかけとなり、ついにはその体制を崩壊させ、文民政府の誕生と50年ぶりの政権交代を実現する決定的な原因となりました。
5・18は、それまでの歴史的な民衆抗争を通して掲げられてきた自主・民主・平和の伝統を受け継いだだけでなく、韓国現代史における民主主義発展の象徴的な民権闘争として記録されています。

5・18民主化運動(光州事件)の発端と展開

光州よ、民族の十字架よ! 我々の永遠なる青春のまちよ!

1979年10月26日、5・16軍事クーデターで政権を取ってから18年間の長期政権を握っていた朴正熙大統領が金載圭中央情報部長の銃弾により死亡しました。維新独裁の没落も束の間、全斗煥を中心とする政治将校集団が12月12日クーデターに成功、政権奪取のための陰謀を進めました。1980年春、大学は学生会の復活運動とともに、「戒厳令解除」「維新残党退陣」など政治の民主化を本格的に要求し始めました。
1980年5月17日、「新軍部」は法に反して政権を掌握するため、全国に非常戒厳を拡大しました。5・17戒厳の拡大は、1979年10月26日以降高まっていた大多数の国民による民主化への欲求を正面から否定するものでした。
新軍部はすでに各地域に戒厳軍を配置、自分たちの陰謀をさらけ出し、光州で作戦名「華麗なる休暇」を実行に移しました。民主化への熱気が高かった光州では5月18日、大学生らを筆頭に非常戒厳の拡大に反対するデモが行われました。
抗争の導火線は、5月18日午前10時、全南大学正門前から始まりました。戒厳軍の強硬鎮圧に追われた学生たちは錦南路など市内へ移動してデモを繰り広げました。デモに参加していない市民までこん棒で殴り、強制的に連行する戒厳軍の残虐さに憤った市民たちがデモに加わり始めました。
さらに、光州市内の高校生たちがデモに参加し、タクシー運転手たちが中心となった約200台の車両デモ隊が道庁に押し寄せました。歪曲報道を続けていた光州MBC放送局は、憤慨した市民たちによって炎に包まれました。 5月21日、戒厳軍は道庁前で戒厳当局の謝罪を求めていた市民に向けて無差別銃撃を行い、道庁前の錦南路一帯が血の海と化しました。以降、市民たちは武装を始め、戒厳軍に立ち向かいました。抗争期間、光州は外部と遮断された孤立無援のまちとなっていました。
市民たちは光州の惨状を伝えるため全羅南道地域へと抗争を拡大していく一方、社会各界の名士たちによる「5・18収拾対策委員会」を構成、戒厳当局と交渉を行うなど事態の収拾に渾身の努力を傾けました。しかし、5月27日早朝、戦車を先頭にやってきた戒厳軍は、抗争指導部が最後の抗戦をしていた全南道庁を武力で鎮圧しました。
そして、5・18民主化運動は数多くの死傷者を出し、10日間にわたる歴史の幕を下ろしました。民主主義が圧殺された瞬間でした。

5・18民主化運動記録館ホームページ

担当課 : 人権平和協力官

電話 : +82-62-613-2082