光州の歴史

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光州の歴史 _ 名称

光州は「光のまち」を意味します。この名称は、今から1,000年以上遡る高麗時代の太祖23年(940)に初めて使われましたが、その理由ははっきりとしていません。ただ、高麗末期の高名な学者・李穡(号は牧隱)は、その著書『石犀亭記』で、「光州」という名称を初めて使っています。

つまり、光州は太陽のまちで、光明のまちだといえます。その名称から分かるように、光州はいつも韓国の光と塩としての役割を果たしてきました。日本統治時代には義兵活動と光州学生運動を通して志を燃やし、軍部独裁が横行していた1980年代には5・18民主化運動(光州事件)で民主化の光として散ったことも、この名称と関連があります。

光州の歴史 _ 沿革

馬韓時代
光州に初めて人が住み始めたのは、馬韓時代と推測されています。馬韓地域のうち、光州と関連があるものとして、臼斯鳥旦国と弗離支国が挙げられますが、臼斯鳥旦国は現在の長城郡珍原面一帯、弗離支国は羅州一帯に当たります。
百済時代
百済は古朝鮮が滅びた後、南下してきた人々が漢江流域に定着し、次第に周辺の付属国を統合してその勢力を拡大した馬韓54国のうちの一つ。
古文書の『三国史記地理志』によれば、百済の郡県は合計で147か所あったといいます。全羅南道地域の郡県は、中・東・南・西・北の五方の一つである南方の久和下城(現在の長城・求礼)に属していましたが、その頃の光州地域は武珍州で、直轄3県の未冬夫里県(南平)、伏龍県(羅州一帯)、屈支県(昌平)を統治していました。全羅南道地域には13郡42県がありました。
統一新羅時代
新羅が統一を成し遂げ、郡県の行政組織を整備したのは、今から約1200年前の景徳王16年(754)のことで、このとき全国を9州に分け、その下に郡県を置きました。
良州に金海京、漢州に中原京、朔州に北原京、熊州に西原京、全州に南原京の5京を置き、この当時の全羅南道は南原京に属していた武州で、15郡32県を管轄していました。
後三国時代
甄萱は尚州加恩県の出身で、西南海岸を防備する防水牌将でしたが、真聖女王6年に武珍州を占拠し、付近の郡県を掌握、完山州(現在の全州)に進軍して都としました。そして、自らを後百済の王と称しました。
高麗時代
高麗太祖19年に甄萱の息子・神剣が降伏したことで後百済は滅び、太祖23年(940)に武珍州を光州に改編すると同時に都督府を置きました。
その後、成宗14年に官制改革があり、全国を3京4都護府10道に分けると同時に12州牧を12州節度使に変更、この改革によって全羅南道は海陽道とされました。そして都護府を安南(現在の霊岩)に設置し、光州には刺史を置きました。
朝鮮時代
1910年9月30日、朝鮮総督府の新たな地方制度に従い光州に邑長を置きましたが、当時の光州は光州邑城内を城内面と呼び、城外に奇礼坊・公須坊・不動坊の3坊があったため、1面3坊を合併して光州面と名付けました。
1931年4月1日には地方制度の改正によって光州邑に昇格しましたが、1935年には再び行政体制が改編され光州府と改称されました。この際に行政区域は41の町に拡大されました。
大韓民国
1945年8月15日、日本が連合国に降伏すると、駐屯アメリカ軍による軍政が2年11か月間実施されましたが、1947年6月3日に軍政庁が廃止され、1948年8月に大韓民国政府が樹立されました。これと同時に1949年、光州府は光州市に変更され、2回にわたって行政区域の変更が行われました。1963年には西倉・大村出張所が再び光山郡に戻されたため、市の管轄区域は214.92㎢に狭まり、6の出張所と45の洞となりました。
1986年11月1日、「光州直轄市設置に関する法律」が公布され、釜山・大邱・仁川に続いて4つ目の直轄市に昇格しました。このときはまだ3区72洞で、行政区域の面積は215.11㎢に過ぎませんでしたが、1988年1月1日、法律第3963号の公布により、松汀市と光山郡全域が再び光州直轄市に編入され、面積が501.20㎢と大幅に拡大、4区83洞9出張所を管轄する韓国西南圏の中枢管理機能都市としての基盤を整えました。
1995年1月1日には光州直轄市から光州広域市に名称が変更、1995年3月1日に西区から南区が分区され、2016年12月末現在、人口1,489,134人(外国人を含む)、5自治区95行政洞として運営されています。

光州の歴史 _ 特性

西南圏の中心都市
光州は湖南(全羅道地方)の中心都市であるとともに交通の要衝で、全国と1日生活圏にあります。本格的な西海岸時代の幕開けと政府の地域均衡発展施策によって進められている光州先端産業団地の建設、生産都市化の達成、住居・休息スペースの拡大など、大規模な都市開発事業が急速に行われていて、名実ともに西南圏の中核都市としての役割を果たしています。
由緒ある愛国忠節の都市
壬辰倭乱(文禄の役)の約7年間にわたって、日本軍の侵攻から国を最後まで守り抜いた救国の精神を受け継いできた光州は、国が危機に直面するたびに奮然と立ち上がる愛国忠節の伝統を有しています。文禄の役では、義兵として命尽きるまで戦い、日本統治時代には抗日独立運動、1980年5月の5・18民衆抗争(光州事件)では正義・民主・人権・自由を守るため、多くの市民が血を流して戦いました。
5・18民衆抗争の犠牲者を慰め、その精神を継承し、世界の民主聖地としての地位を確立するため、5・18を国家記念日として制定し、5・18墓地の聖域化事業を行うなどの記念事業を積極的に進めています。
文化・芸術の中心都市
光州は古くから文化と芸術のまちとして知られており、高名な学者や詩人・書画家を数多く輩出しました。また、南宗画とパンソリ(韓国の伝統唱劇)のまちでもあります。 特に、他地域に比べて住民の文化レベルが高く、芸術分野に携わる人が多くいます。名誉や利益を求めない素朴な気質を持ち、風流や書画・歌舞を楽しむ文化芸術のまちであるだけでなく、1995年には世界的な美術イベントである「光州ビエンナーレ」を創設、2年ごとに開催し、世界的な芸術都市としてその地位を確立しています。2015年11月には国立アジア文化殿堂がオープン、アジアの文化拠点を確立し世界に向けたアジア文化の窓口として飛躍を遂げています。
伝統的な教育都市
2016年4月1日現在、学校は計703校(幼稚園321、小学校153、中学校90、高等学校67、専門大学6、大学11、大学院44、特殊学校5、その他の学校6)、学生数は計358,076人で全人口の24%を占め、1世帯当たりの学生数は0.6人となっており、伝統的な教育都市であると言えます。

担当課 : 文化都市政策官

電話 : +82-62-613-3424